幼姫と騎士の昔話

第1話 災厄


 市都アルトメリムはおかしな街だった。そこはとても大きな城郭都市で、広さだけでも他所の一般的な街の数倍はあるのだが、訪れた者が度肝を抜かれるのはそこだけではない。
 この街には国を象徴するとても大きな――それもそっくりそのまま同じ形の城が、二つ並んで建っていたのだ。強いて言えば違うのは外装の色だけだろうか。その異様な光景を、初めて市都へやってきた者は皆、首を上げて口をあんぐりとしながら眺めるのだという。

 何故同じ城が二つもあるのか。理由は単純だ。この街には"フェルナーゼ"と"オートクラティック"という二つの国が存在していたのである。

 つまり両国の首都はどちらも"市都アルトメリム"ということになる。上空から俯瞰して見ると街は大きな楕円状の城壁に囲まれていて、後から付け足されたようにその真ん中を城壁と同じ壁が両断していた。そこを基準に西側の地区をフェルナーゼが、東側の地区をオートクラティックが治めていた。元々は一つの国だったというが、もう二百年も昔の話だ。

 二つの国が生まれて二百年、不思議なことに両国の間に一度も戦争は起きていない。だが、あくまで"国同士の大規模な戦争"にはなっていないというだけだ。
 やれどちらが先住民か、どちらが優れているか――民の間ではそんな小競り合いが日常茶飯事のように起こる。それは十数年前、それぞれに新王が即位してからますます顕著になった。
 二国のトップはそれぞれ国交を断絶することを決めたのである。
 民同士の交流を禁止したわけではない。だが国王たちはそれぞれ隣国に対して一切の不干渉を決め込み、仮に民同士の諍いが大きくなるようであれば自国民を諌めることで争いを避けていた。

 しかし、その均衡も突如崩れ去る。
 ――女神歴二百年。突如オートクラティックの城が黒い装束を纏った者たちによって襲撃を受け、一夜にして滅ぼされた。城にいたオートクラティックの血を引く皇族貴族を中心に多くの者が命を落としたその事件は、後に"オートクラティックの災厄"と呼ばれることになる。

 彼、クラシェリス・ティーヴァチル・オートクラティックもまたその事件に巻き込まれた一人だ。彼はオートクラティックの皇族を護る直属護衛騎士の息子だった。故にオートクラティック皇帝ともその御子息とも顔見知りであり、皇帝とは剣技の師弟関係でもあった。
 災厄は、そんな彼がまだ十の年に起きた。




 災厄から数日経った日の朝だ。クラシェリスは焼きつくような激しい痛みに目を覚ました。

「ここは……」

 見覚えのない白い天井がぼやけて見える。不意に身体を起こそうと身をよじると、腹がじくりと痛んだ。苦痛にクラシェリスは顔を歪め、一旦起きるのを止めた。滲み出る汗で額に栗色の髪が張り付く。

 どうしてぼくはこんなところに居るんだ?

 霞がかった思考がだんだんと冴えてくる。同時に、脳裏に焼きついた光景がはっきりと浮かび上がってきた。
 猛襲してくる黒装束。覆い被さるように息子を庇う母。いつも綺麗だった母のドレスが、血に染まってゆく。恐る恐る背に腕を回すと、手の平にべったりと鮮血がついていた。その血を見た途端、腹部に走った激痛にクラシェリスは歯を食いしばった。母に突き刺さった刀は貫通してクラシェリス自身の腹にも到達していた。手についた色と同じように一瞬視界が真っ赤に染まったかと思うと、次にはクラシェリスの世界は暗転していた。
 だけど気を失う間際――ほんの一瞬。クラシェリスは兵士を連れた父が助けに来たのを見た気がした。

「――っ父さまは!」

 ハッとしたようにクラシェリスはもう一度身を起こした。再びズキリとした痛みが伴う。痛む箇所を見ると、そこには丁寧に包帯が巻かれていた。

「お目覚めのようですね」

 不意に声がした。女性の声だ。声のした方向へ顔を向けると、侍女の規定服を着た女性が水の入った桶を持って立っていた。城にいた頃クラシェリスの周りにも侍女は居たが、彼女らとは服装が少し違う。そこは家柄なのだろう。ということは、ここはどこかの屋敷なのだろうか。

「……あの……」
「まだ起きてはなりません。旦那様へ貴方様がお目覚めになられたことをお知らせして参りますので、もうしばらくはそのままお休み下さいませ」

 女性は事務的にそう告げると、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 辺りを静けさが支配する。何の物音もしない。どうしてここはこんなにも静かなのだろう。何の音もしていないのに、クラシェリスの耳には確かに聴こえていた。
 辺りを飛び交う悲鳴。助けを呼ぶ声。逃げ惑う人々の足音。震える手をゆっくりと裏返すと、既に拭かれて何もついていないはずの手のひらに、まだべったりと血がこびりついていた。クラシェリスは思わず悲鳴を上げた。シーツで拭っても拭っても血が取れない。ぼろぼろと涙がこぼれてくる。皮膚が擦れて赤くなっていたが、クラシェリスの目には血しか見えていない。
 ふと、その手を誰かに掴まれた。涙で歪んだ視界が、手を掴んだ人物を捉える。
 見覚えのある緑の軍服。胸ポケットには上流階級である証の勲章がいくつもぶら下げてあった。その面影を持つ人物をクラシェリスはよく知っている。

「――父さま……?」
「ああ、自分の置かれている状況がまだよく分かっていないのだね。可哀相に」

 知らない声。違う。父さまじゃ、ない。

「手が腫れている。ちゃんとよく冷やしなさい。それから、まだ動いてはいけないよ。私が水を持ってこよう」
「旦那様、お水ならこちらに」
「ああ、すまないね」

 軍服から目線を上にずらすと、厳格でやせていた父とは似ても似つかない、ふくよかで優しそうな中年男性の顔がこちらを窺っていた。その顔をまじまじと見ていると、突然ひやりとした感触が手に触れた。その男性が、濡れたタオルをクラシェリスの手の平に当てたのだ。もう一度手の平を見ると、もう血はなくなっていた。

「もう大丈夫だ。ここは安全だからね」

 男性はそう言うと、にっこりと微笑んだ。大きな手がクラシェリスの頬を撫で、涙を拭う。クラシェリスはまだ呆然としていた。もう取り乱してはいない。だが、理解しようにも頭が付いていかないのだ。

「父さまと母さまは……」

 自然にこぼれた言葉。クラシェリスは叫んだ。

「父さまと母さまはっ……他のみんなは!」

 突然激しい剣幕で腕を掴まれ、男性は一瞬たじろいだが、すぐに落ち着きを払ってゆっくり顔を横に振った。
 クラシェリスを絶望へ突き落とすにはそれだけで十分だった。強く掴んでいた手から力が抜ける。

「我々が城に着いた頃には既に皆――だが、他にも無事逃げ遂せた者も居るかも知れない。君のように助かった者もな」
「なんで、ぼくだけ……」

 何故自分だけがここにいるんだ。最後に見た父は、この男性と見間違えたのか?
 ――いや、違う。あの日ぼくは確かに一度父と会ったはずだ。何か大切なことがあったのに思い出せない。

 その場を沈黙が包むと、見越したように、先に沈黙を破ったのは男性の方だった。

「ああ、そうだ。自己紹介が遅れていたね。私はクローゼス・アンクフッド。ここ、フェルナーゼ騎士学校の監督者だ」
「フェルナーゼ……!?」

 その名を聞いた途端、クラシェリスは無意識に身構えた。だが、この怪我ではろくに動くこともできない。

「安心しなさい、何も追い出したりはしない。元々敵同士という訳ではないんだ」

 クローゼスはクラシェリスの予想と反し、にっこりと笑った。

「君は見たところオートクラティックの貴族のようだね。名は何と言う?」
「……クラシェリス……ティーヴァチル」
「ティーヴァチル……? ああ、君はレイジェルの息子か!」

 クローゼスは思わず目を見開いた。クラシェリスが顔を上げると、さらに、なるほど、と納得したように呟く。

「父を……知っているんですか?」

 クラシェリスの問いかけにクローゼスは「ああ」と答えた。

「彼は私の従士時代の同期なんだ。昔はフェルナーゼもオートクラティックも同じ環境下で騎士を育てていたんだよ。彼はその頃から腕の立つ男でね……ははは、なるほど! 目元がそっくりだ。彼も君のようにキリッとした目をしていた。その珍しい翡翠色も同じだ」

 懐かしそうにクローゼスが微笑む。クラシェリスは何も言えず、ただその笑顔を見つめていた。
 自分も知らない、いや自分よりもよく父のことを知っている人物。会えたきっかけがこんな形でなければ、もっと喜べただろう。

「そうか……これも何かの縁かもしれないな」

 クローゼスは独り言のように呟くと、座っていた椅子から立ち上がった。それから、身体を起こしていたクラシェリスの肩に手を置き、ゆっくりと寝かせる。

「しばらくはここに居なさい。急ぎ行く宛もないだろう」
「えっ……で、でも」
「言っただろう。ここは安全だ。今はゆっくり休んで、その怪我を早く治しなさい。君には休養が必要だ」

 有無を言わさず、クローゼスはクラシェリスの髪を撫で、布団を掛けた。

 クローゼスと侍女が部屋を後にした後、再び静かな部屋の中一人残されたクラシェリスはただぼんやりと天井を見つめていた。
 大分落ち着いてきたためか先ほどのように取り乱すことはない。だが、思い起こされるのは父と母、皇帝陛下……そしてまだ自分よりも幼い皇子や、生まれたばかりの姫たちも気がかりだった。
 ――死んでなんかいない。この目で見た訳じゃないんだ。ぼくが助かったのなら、母さまだってきっと生きてるに決まってる!
 それなのに、どうしても涙が溢れてくるのを止められずクラシェリスは声を押して静かに泣いた。