幼姫と騎士の昔話

第10話 拍動


 西の廃工場とは、その名の通り今は使われていない工場だ。元は機械の動力源を開発する場所だったらしいが、市都から北に位置する機械都市グニキタからの動力源の進呈により、市都で動力源を作る必要はなくなったせいだという。廃工場は今も西の外れに建っていた。

「ここら辺は人通りが少ない……」

 まさに格好の隠れ場所だろう。人気のない廃れた工場が六つ、左右に並んでいた。この内のどこかにティナベルたちが居るに違いない。
 クラシスは腰に下げた刀に手をかけた。廃工場へ向かう途中、こっそりとクローゼスの屋敷から拝借した物だった。――帰ったら、謝らなければならないことばかりだ。
 そもそも城の中に居たお姫様をどうやって誘拐したのだろうか。よほどの手練なのか。もしかしたら自分のほうこそ、無事で帰れるか分からない――だが、今更引き返す訳にもいかない。

 ふとクラシスは足を止めた。素早く工場と工場の路地に入り、壁際に寄る。壁に大きく"六"と書かれた一番奥の工場。その入り口に黒い人影が二人見える。もう少し近づくことができれば――仕方ない。クラシスは路地の裏を回ることにした。

「ようやく取り戻せたのですね」
「――約束は果たしたわ。後はそちらが計画を実行するだけよ」

 一人は男、そしてもう一人は女の声だ。男の方はグレーのスーツを身に纏い、同色の帽子を深く被っているため顔は見えない。女の方もまた全身を漆黒の衣装で隠しているため、他に特徴を捉えることができない。その上、顔には覆面をしている。
 ふと帽子のツバの下から、男がニタリと笑ったのが見えた。

「もちろん、分かっていますとも」
「そう。これでやっと……」
「ですがねぇ、まだその時ではないようでしてね」
「どういうこと!?」

 突然女が声を荒らげた。クラシスはいっそう壁際に張りつき、息を凝らす。

「それが、彼女はまだ目覚めていないのですよねぇ。これがフェルナーゼの手によるものなのか、それとも……」

 カツン、と音がした。しまった。気づいた時にはお留守になっていた足元から、小石が飛び跳ねた。
 二人組はそれこそ音の方向には振り向かなかったが、場の空気が変わったのはクラシスにも感じ取れる。

「……この場は任せましたよ」
「分かってるわ。その代わり――」
「ほほほ、約束は守りますよ。例え何年かかろうとね」

 男はチラリとクラシスが隠れている壁の向こうを見ると、小さく微笑んだ。次の瞬間、男は煙のようにその姿を消していた。
 残された女が腰の剣へ手をかける。

「バカな子……」

 男の消えた後、正面から姿を現したクラシスを視界に捉えた女は静かに呟いた。


 クラシスは目の前の敵を見つめたまま密かに震えていた。それが畏怖なのか、武者震いなのか、あるいはティナベルを危険な目に遭わせていることへの怒りなのか。本人にすら分からない。ただ、今自分の中で血が熱く煮えたぎっていることは確かだった。

「何が目的だ。一国の姫を浚うなんてどれほどの大罪か分かっているだろう」
「……あなたには分からないことなんじゃないかしら。それよりもあなた、一人でこんな所まで来たの?」

 お互い据わった目を向かい合わせながら鞘から剣を引き抜く。剣を右手に、鞘を左手に。

「そんな大罪を冒す人間に、一人で勝てるとでも思っているのかしら」
「どうだろうね。やってみないと分からないさ」

 二人が一気に間合いを詰めたのはほぼ同時だった。ガキン、と激しく刃同士がぶつかり合い、火花を散らす。クラシスの持つ剣と、相手の剣も大きさはさほど変わらない。本来は両手剣といえるそれを、女は細い片手で軽々と振り上げていた。
 しかし、それはクラシスといえど同じだ。子どもの腕で持つには充分重いはずの剣を片手で持ち、もう片方に鞘を持つ。斬りつけようとやってくる刃を、その鞘で払い流す。
 数回剣が交わるうちに、クラシスはふとした違和感に気がついた。――相手の剣の太刀筋に何か見覚えがあるのだ。
 動きの速さはほぼ互角だった。だが、クラシスと女の間には腕力と――そして技量という圧倒的な経験の差が存在した。

「――っ」

 ギリギリでなんとか受け流そうとしたが、肩口を薄く斬られた。続いて息を吐く間もなく、肩を斬りつけた刃が向きを切り返してクラシスの腹へ流れるようにやってくる。それも左手の鞘で押し返したが、防ぎきれなかった刃の先が脇腹を裂く。どれも大きな怪我にはなっていないものの、既にいくつか傷を負わされている。

「そんなんじゃ、誰も護れないわよ!」

 女がクラシスの剣を弾いた。そのまま剣先が喉元へ突きつけられる。
 ――この太刀筋。そうだ、どうりで覚えがあるはずだ。これは"自分"と――正確に言えば、己の剣の師匠である"皇帝陛下"の剣技に似ているんだ――。それだけじゃない。この声には聞き覚えがあった。

「その剣技はオートクラティックに伝わるものだ。それにあなたは――どうして――」
「……」

 女の気配が揺らぐ。その一瞬をクラシスは見逃さなかった。すかさず鞘で女の剣を受け流し、間合いを詰めると足を払い女の体勢を崩させた。そこに生じた隙をつき、今度はクラシスが女の剣を弾き飛ばす。これで互いに持っているのは鞘だけだ。

「くっ……あっはは……」

 片膝をついたまま女は笑い出した。ああ、やはり、とクラシスの顔が苦渋に歪む。

「あっはっは! やっぱり男の子だねぇ。思ってたよりずっと力が強いわ」
「なんで――なんであなたがこんなバカなことを!」

 女は覆面をするりと脱いだ。漆黒の髪が風に揺れる。
 覆面の下に現れたのはとても見知った顔であり――マリアン・サリンジャーだった。

「悪いけど邪魔されるわけにはいかないの。大丈夫よ、ティナの居場所はあの城じゃなくなるってだけ」
「何がっ……何が大丈夫なんだ! 何も大丈夫じゃない!! こんなことをしたらあなたは!!」

 マリアンは眉を寄せ、バツの悪そうに微笑んだ。

「本当なら殺すべきなんだけど……レイジェル・ティーヴァチルの子、クラシェリス。君にはこちらに来る資格がある。私たちと来ない?」
「何を言って……」
「私たちはオートクラティックの再建と仇討ちを願ってる。それだけよ。そのためにあの子――ティナが必要なの」

 先の剣技。あれはオートクラティックの限られた貴族しか扱わない流派だ。となれば結論はただ一つ。彼女もまた、オートクラティックの生き残りだったのだろう。
 でも、それが? それがティナベルを誘拐することと何の関係があるんだ。

「ユゲルフィスタはあの子をこれからもずっと城で飼い殺す気なのよ。それが本当にあの子のためなの? 何も知らずに一生檻に閉じ込められることがあの子の幸せ? いいえ、あいつはいつかきっとあの子の力を利用する。そのために飼っているにすぎないのだから」

 初めて見る憎悪に満ちたマリアンの表情にクラシスは喉を震わせる。

「あ……あなたたちは、ティナを使って何をする気なんだ……!」
「それはまだ教えられないわ。君が私たちと来るなら別だけどね」

 フフ、とマリアンは笑った。

「……ティナに会わせてください。それから決めます」






「ティナ!」

 倉庫の一角に足を踏み入れると、クラシスは思わず叫んだ。倉庫の中心で手足を拘束されたティナベルがぐったりと椅子にもたれかかっている。そんなティナベルを囲むようにボロボロの服を着た男たちが十数人立っていた。静止してきた男たちをかわし、クラシスはティナベルに駆け寄る。激しく動くと先ほど負った傷が痛んだがそれどころではなかった。
 ティナベルは顔色が悪く、意識のないまま浅い呼吸を繰り返していた。手足を見るとティナベルを拘束しているのは何かの宝石で作られた数珠のような物で、締められた皮膚は赤く擦れている。

「サリンジャー! なんだそいつは」
「前に話したでしょ。ティーヴァチルの子……同志になるかもしれない子よ」
「何もこんな時に――!」
「……てたんです」

 不意にクラシスの口から声が漏れ出た。マリアンたちに背を向けたままクラシスは続ける。

「マリアンさん。僕はあなたを信じてたんです。もしもティナが……仮に誘拐されたことを分かっていなくても、いつものように笑っていたなら。あなたの言う通り、彼女が城の外で生きる道もあるんじゃないかって。彼女が自由に……幸せになれるならそれもいいかもしれないって……少しだけ思いました」
「じゃあ――」
「でもそうじゃない! ティナはあなたたちの元へ行ってもずっと籠の中の鳥だ。飼い殺すのがフェルナーゼの王からあなたたちに代わるだけだ!!」
「……!」

 クラシスの剣幕にマリアンは目を見開く。だがその瞳はすぐに諦めたように冷めたものへと変わった。

「あなたたちと共にいればティナはこれからも必ず波乱に巻き込まれる。現にもう巻き込まれてる……だったらあの城の中にいたほうがずっと安全だ」
「――それが君の答えね。残念だわ、クラシス」

 マリアンと男たちがぞろぞろと武器を構え出す。丸腰のクラシスは敵の体制が整う前に仕掛けた。一番手近にいた、今まさに腰の武器に手をかけようとしていた男に突進すると素早く武器を抜き取ったのだ。敵の懐から武器を奪うのは以前にもやったことがある。クラシスはそのまま奪った剣で男を斬り捨てた。
 マリアン以外はただ武器を持っただけの素人集団だった。隙だらけの攻撃をするりと避け、クラシスは着実に敵の数を減らしていく。致命傷には至らぬよう、手足だけに狙いをつけて。

「サリンジャー! なんとかしろ!」

 言われるまでもなくクラシスと間合いを詰めてきたマリアンから重い剣戟が飛んでくる。避けることができず、クラシスはそれを正面から受け止め吹き飛ばされた。くっ、とクラシスは奥歯を噛む。ここに来る前にマリアンから受けた傷が軋み、血が滲んでいく。
 休む間もなくマリアンの追撃が始まった。激しい剣閃が飛び交う。戦況として追い詰められているのは明らかにクラシスのほうだったが、異常に息を乱していたのはマリアンだった。マリアンは自分に言い聞かせるように叫び出す。

「誰かがやらなきゃならないのよ……! いいえ誰かじゃない、私が! 私が仇を取らなきゃ、あの子が浮かばれないじゃない!!」
「そんな復讐にティナを巻き込むなっ!!」

 隙だらけだったマリアンの剣がクラシスによって再び弾かれる。マリアンはビリビリと痺れている腕をそのままに、目を見開き呆然としていた。

「殺せ……邪魔する奴は全員殺せ……!」

 先ほどクラシスに腕を斬られた男がうめき声を上げた。その充血した目が、椅子の上で項垂れているティナベルを捉える。血がどくどくと流れ出ているその腕で男は再び剣を握りしめ、ゆらりと立ち上がった。

「そう――そうだ……こいつは……こいつらのせいで俺の娘は死んだのに、なんでこいつは生きてるんだ……?」

 男の様子がおかしい。血走った眼で、思考能力が低下していて――クラシスはふと、オートクラティック城で暴走した時の自分を連想した。まずい。

「ぁああ――こいつさえ死ねば!!」
「――な……何するの!? やめなさい、それでは話が違う!」
「ティナ!」

 マリアンの静止も届かず、男の凶刃がぐったりしたまま動かないティナベルに向かって振り降ろされる。クラシスは無我夢中で飛び出していた。
 ――ティナベルの頬に赤い血が飛び跳ねた。衝撃でクラシスの息が一瞬止まる。ティナベルを庇ったクラシスの背はばっくりと斬り裂かれ、クラシスはそのままティナベルの膝にずるずると力なく崩れ落ちた。
 動けなくなったクラシスに勝機を見たのか、凶刃を振るった男の狂気に当てられたのか、他の男たちが咆哮を上げてクラシスを囲み剣を向ける。

「い、今だ! やっちまえぇ!!」
「ラスティンッ!」

 知らない名前を呼ぶ声がした。同時に、朦朧としていたクラシスの鼓膜にドスッと鈍い音が響く。

「サ……サリンジャー! お前、やはり裏切ったな!」

 力を振り絞ってクラシスが後ろを見ると、そこにはクラシスとティナベルを護るようにマリアンが立っていた。その背に刺さった剣先が腹から突き出している。

「マ、マリアンさん……なんで……?」
「は……あっ、はっは……なんで、かなぁ……間違えちゃった」

 マリアンは膝をつき、そのままクラシスに覆い被さるように倒れてきた。クラシスはなんとか身をよじり、その背に恐る恐る手を回す。ぬるりと手が滑った。血だ。彼女の背も、自分の手も、赤く染まっている。血。血だ。大切な人の血だ。血――!

「はぁ……は、あぁ……あああ……!」

 クラシスの脳裏にあの日の記憶が蘇る。
 ――災厄の日もそうだった。病弱だった母が、自分のことを覆い被さるように凶刃から庇って――その背には刃を突き立てられた。

 視界が赤く染まる。そこで"クラシス"の意識は途絶えた。




 静まり返った倉庫で、パチャ、とクラシスの靴底が水音を立てる。クラシスはもう誰もいない空に向かってブンブンと力なく剣を振り回していた。その視界には何も映っていない。
 不意に足元で服が引っ張られ、クラシスは一瞬動きを止めると本能的に剣を振り上げた。

「クラシス……もういいのよ……」

 クラシスの服を掴んでいたマリアンが息絶え絶えに呟く。クラシスの振り上げた手はそのまま震え出し、やがて持っていた剣をするりと床に落とした。剣は床に叩きつけられ、水音と金属音が倉庫内に鳴り響く。
 ――気付けば辺り一面、血の海になっていた。赤い水面の中、物言わぬ肉片があちこちに飛び散っている。原型が分からないものさえある。

「ごめんねぇ……巻き、込んで――ごめんね……」

 マリアンさん、とクラシスは呟いた。声が出ない。感覚のない身体を引きずり、マリアンの側に膝をつく。

「きみ、は……あの子を……護って、ね」

 ティナベルはあちこちに返り血を浴びていたが、今も椅子の上で眠っていた。マリアンはその姿を見て微かに目を細める。

「私は、だれも……護れ……なか……」

 マリアンはそれ以上何も言わなかった。いつも豪快に開けて笑っていた唇も、優しく頭を撫でてくれた指も、もう動かない。虚空を見つめたまま動かなくなったマリアンの瞼をクラシスはそっと閉じた。
 やがてクラシスは立ち上がると、ティナベルの元へふらふらと歩き出した。ティナベルはどこも怪我をしていないようだった。

「ティナ……ここにいるのは、よくない。早く外へ……城に帰ろう……」

 近くに落ちていた誰かの剣を拾い、ティナベルの手足を拘束していた数珠の紐を切ると、クラシスはその小さな身体を持ち上げてふらつきながら倉庫の外へ向かった。
 外から無数の鎧の音が聴こえる。前にもこんなことがあったなと、クラシスはぼんやりと思った。