あれから早一年、相変わらずクラシスは従士としての生活を中心としていた。そう簡単に騎士にはなれないとは熟知していたが、時には実戦続きの日々も続き、さすがのクラシスも滅入ってきたある日のことだった。
クラシスにとって、二度目の転機と言える出会いが訪れた。
クラシスは急いでいた。とっても急いでいるはずだった。指南訓練に遅刻すれば罰も待っているし、それよりもこの授業はクラシスが何よりも楽しみにしている科目の一つだった。勉強は不得意ではなかったが、やはり身体を動かしている方が好きだったからだ。
だが、そんな授業に遅刻してでもどうしても放って置けない状況がクラシスの足を止めていた。
「君はそこで何をしているんだ?」
クラシスは首を伸ばして、頭上を眺めながら言った。木の上で何かがガサリと揺れる。
「んっとね、このねこさんがねー、うごけないの」
木の枝に乗ったまま、声をかけられた"少女"は足元を見ないように、顔を正面に固定したまま答えた。へにゃへにゃと笑っているが、密かにその表情が強張っている。少女が懸命に伸ばしている小さな手の先を見ると、確かにそこには猫が居た。
「動けないのは君の方だろ……」
このままでは少女の方が落ちかねない。そもそも、あんな小さな身体でどうやって登ったんだ。
「危ないからそこを動かないで。僕が行くから」
クラシスが短くため息をついて、木の幹に手をかけたと同時に、猫が急に動き出した。枝から飛び降りようとしたのだ。
突然の行動に戸惑い、少女が猫に向かって腕を伸ばす。
「あっ」
「危な――!」
伸ばした拍子にバランスを崩した少女の身体がグラリと揺れた。少女の手は猫にも届いていない。
どちらを助けるべきか迷う間もなく、クラシスの胴体は少女の下敷きとなり、左肩の腕は猫に向かって伸ばされていた。
「痛て……」
子どもとはいえ人間の体重分の重力を思いっきり喰らい、尻もちをついたクラシスは小さく呻いた。
少女は落ちたショックからかしばらくきょとんとしていたが、クラシスの手に猫が掴まれているのを見ると、スイッチが入ったように顔を明るくさせ、にぱっと笑った。
「ねこさんぶじだあ! ありがとお、おにぃちゃん!」
「どう……いたしまして。君、怪我は? 大丈夫?」
「うん、へいき!」
クラシスは少女のあまりの無謀ぶりに叱ってやろうかと思っていたのだが、えへー、と笑う少女に結局怒る気力を失った。
「……あれ?」
不意に少女が固まった。クラシスが少女の顔を覗き込むと、今度はその頬にぺちっと小さな両手が添えられた。彼女の赤い瞳がクラシスの翡翠色の瞳をじっと覗き込む。
「もしかして、"くらしす"?」
「え?」
意表を突かれ目を点にしているクラシスを余所に、やっぱりくらしすだ、くらしすだー! と少女はいきなりやんやと騒ぎ立てた。
「な、なんだ……なんで僕の名前」
こんな小さな子どもが城の中を自由に出歩いているということは、この子の親はフェルナーゼの貴族なのだろうか? その割にはワンピース一枚で随分とラフな格好だ。
橙色の髪に赤い瞳――その面影にはふと心当たりがあったが、そんなはずはないとクラシスは首を振った。
「君、両親は?」
「りょうしん?」
「あー……お父さんか、お母さんは」
「ティナ、おかあさんいないよー。あっ、でもねえ、とおさまはいるよ!」
「ティナ? それが君の名前なんだね。じゃあティナ、君は早くその父さまのところに……」
「ティナベル姫!」
突然、どこからか女性の声がその場に響き渡った。
「あっ、マリアンだ」
聴き慣れた声を聞いて振り返った"ティナベル"は、声の主を見つけると、あっと笑った。
「ティナ……ベル? 姫? じゃあ、君の父さまって……」
呆然としているクラシスの腕から、猫がぴょんと飛び降りた。それからチラリと振り返ると、そのままどこかへ走り去ってしまった。
「あっ、ねこさんいっちゃったあ」
残念そうにティナベルが声を上げる。クラシスはまだ混乱していた。
フェルナーゼに姫が居たなんて、それこそ初耳だ。
「ティナベル姫! ご無事ですか。お怪我はありませんか」
先ほどマリアンと呼ばれていた女性が、猫と入れ替わるようにやって来た。うなじで一つに結われた長い黒髪が揺れる。
「だいじょぶだよお、くらしすがたすけてくれたんだよ!」
「クラシス? ……ああ、君、あなたが。終始見ていました。姫を助けて下さり、ありがとうございます」
彼女が一度「君」と言いかけたのをクラシスは聞き逃さなかった。
「い、いえ。それこそ、僕のほうこそ、この……方が、姫様だなんて知らなくて」
バツの悪そうにクラシスは苦笑した。
「それは仕方ないですよ。木登りするお姫様なんて、そうは居ませんから」
ふふ、とマリアンは微笑んだ。意味が分かっていないのか、ティナベルはにこにこ笑いながらマリアンに抱きついている。
まだ尻をついているクラシスに、手が差し伸べられた。
「私はマリアン・サリンジャー。こちらに居られる、ティナベル・ルフス・フェルナーゼ様の護衛騎士です」
その襟元で、騎士の証であるバッジが輝いていた。
「何茶がいいですか? 私はレモンティー。姫はアップルティーですよね」
「うんっ」
紅茶の甘い香りがその場に充満していた。白いティーポットから、同じ銘柄のティーカップの上に置かれた茶葉へお湯が通される。
マリアンがお茶の用意をしている時、クラシスと一緒に待っているよう命じられたティナベルは自分も手伝うのだ、と言うことを聞かなかった。仕方なしにマリアンから砂糖を運ぶのを許されたティナベルは、目をランランとさせてクラシスの元へ行き、そのカップごと手渡した。
「それで、君――あなたは?」
クラシスはまだ自分がここに居るのは場違いな気がしてならなかった。
「あの、もう無理をした敬語はよして下さい。見ての通り、僕はまだ従士です。気を遣う必要はありません」
「やっぱりバレちゃったか」
あっはっは、とマリアンは笑った。出会った時に見せた先ほどの淑女の微笑みと違い、今回のはやけに豪快だった。
「噂通りの子だねえ、君は」
噂。それがいいものであれ悪いものであれ、このフェルナーゼで、自分が様々な噂を立てられていることは知っていた。それに緑の目は珍しいと言われたことがある――ティナベルが自分のことを知っていたこともなんとなくだが察しがついた。
「それで、どうする?」
「何がですか?」
素で返してきたクラシスに、マリアンはぶっと吹いた。
「お茶。何茶がいいかってさっき訊いたでしょ」
「お、お任せします……」
了解、とマリアンは何かの紅茶の葉を取り出した。その姿を恨めしそうに見ながら、クラシスがぼそりと呟く。
「本当は護衛騎士殿にこんなことしてもらえる身分じゃ――」
「まあまあ。姫を助けて頂いたお礼なんだから、受け取ってよ」
そんな独り言もしっかり聴かれていたらしく、クラシスはギクリと固まった。
注いだばかりのアップルティーに口をつけたティナベルはびっくりしたように身体を跳ねさせた。
「あちちっ」
「大丈夫ですか、姫。ちゃんとふーふーしないと駄目ですよ」
「したよお」
涙目になっているティナベルからティーカップを受け取ると、マリアンはそれにふーふーと息をかけ始めた。
その光景を眺めていたクラシスは、ふと昔のことを思い出した。
そういえば自分も幼い頃、母に同じように紅茶を冷ましてもらっていたことがある。あの頃は――
「あっ、くらしす、おサトウなんこいれるー?」
「え、あ、ああ。四個くらい……あとミルクも……」
ティナベルの声ではっと意識を戻したクラシスは、これ以上過去の感慨に浸るのをやめた。
「あははは! 四個! 君結構甘党なんだねえ」
「う、ほ、ほっといてください」
「ねえねえ、ティナがいれてもいーい?」
「あ、どうぞ」
ティナベルはクラシスににぱっとヒマワリのような笑顔を向けてから、いっこ、にーこ、と角砂糖を一つずつ紅茶に投入し始めた。それを目の端で見ていると、ふいに計五個入っていた気がしたが、クラシスはもともと甘いもの好みなので何も言わないことにした。
ティナベルから渡されたかなり甘い紅茶を一口、口に流し込む。本当に甘い。なんだか久し振りに落ち着けた気がする。ほう、と一息吐くとマリアンとティナベルに思いっきり凝視されていたことに気づいた。思わず固まる。
「そんな顔もするんだねえ」
ンフフ、とマリアンは含んだ笑いを見せた。クラシスは急に顔が熱くなったのは温かい紅茶を飲んだからだ、と自分に納得させた。