幼姫と騎士の昔話

第6話 初恋


 それから、しょっちゅうティナベルが従士寮へ遊びに来るようになった。ティナベルが来るということは、その護衛騎士のマリアンも自動的について来る、ということである。ティナベルたちと出会ってから、クラシスはますます騎士学校で浮いているような気がした。
 お茶をしている最中は、指南訓練を初めてサボったことをすっかり忘れていたが、あの後さり気に寮に帰ると偶然クローゼスと遭遇してしまい、珍しく注意を受けてしまった。


「クラシスー!」

 とてとて、なんて効果音が聞こえてきそうな足取りで、おてんば姫がやって来た。何度か会っているうちに、ティナベルには抱きつく癖があることが分かった。最初は意外に力を持ったその"タックル"に、油断していたクラシスはよろけてしまった。そしてそれを見ていたマリアンがまた笑うので、クラシスは顔をしかめるしかなかった。

「姫、それで今日はどうしたんですか」
「"けいご"はやだってゆったでしょー! 姫っていうのもやだ!」

 ぷいっと顔を背けられ、クラシスはティナベルと会うようになってから何度目かの溜め息をついた。おてんばなだけでなく、わがままとまで来たもんだ。
 それを見ていたマリアンが助け舟を寄こした。

「姫、ダメですよ。あんまりわがままを言うとクラシスに迷惑がかかります」
「……うー……うん。ごめんねクラシス」

 眉尻を下げてしおらしくなったティナベルの前にクラシスが膝をついてしゃがむ。それからティナベルの耳を借りると、小声で、

「ええと、じゃあ……ティナ、後でお茶をしに行ってもいいかな」

 と言った。それを聞いたティナベルは満面の笑みを見せて大きく頷いた。



 従士というのも忙しいもので、クラシスの短い休憩時間にしか三人は会うことができなかったが、それでも大抵はマリアンの自室でお茶をしたり、あとはたまにだがクラシスの部屋でおしゃべりをすることもあった。
 最初に二人を自室へ招き入れた時、最初から設置されていた簡易ベッドと衣装タンス、それから小さな机とイスしかないその部屋を見て「随分とこざっぱりした――質素な部屋ね」とご丁寧な感想を頂いた。クラシスの私物というのも数えるほどの着替えの服くらいしかなかったのだから、部屋に物がないのも仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。クローゼスからは「必要なものがあったら言いなさい」と言われていたが、クラシスには特に欲しいものもなかったので、気持ちだけ頂くことにした。

「お前、最近やけにお偉い方々と会ってるじゃねぇか」
「またお前か」

 もううんざりだ。クラシスは呆れ顔で呟いた。従士寮の廊下でいきなり突っかかってきたのは言うまでもなくフェインだ。

「お前完全にナメてんだろ! 今タメ口ききやがったな!」

 全く反省した様子のないクラシスに、フンとフェインは鼻を鳴らし、それからどこか余裕にニヤリと不敵に笑った。クラシスの眉が密かに動く。

「今日は俺一人じゃない。お前にムカついてるって奴はいくらでも居んだよ」

 フェインが笑った意味がすぐに分かった。フェインの後ろからぞろぞろと数人、同じ従士の服を着た男たちが現れた。中には当然見知った顔も居る。

「……なるほど。一人じゃ敵わないから、お仲間を連れてきたんですね」
「テメェ!」

 敢えてクラシスは敬語で言い放った。苛立ちで顔を真っ赤にさせたフェインの拳がすぐに顔に向かってきた。避けようと思えば避けられたが、敢えて一発喰らってやった。それで気が済むのなら殴ればいい。とか余裕をこいたものの、やはり殴られた頬はジンジンする。

「フェイン、ここは目立つ」

 腰巾着の仲間がフェインに耳打ちした。そりゃそうだろうな、と他人事のようにどこか冷静な自分が呟く。視線を動かすと、まばらだが周りにいた他の従士たちがこちらを見ている事が分かった。だが、止めようとはしてこない。それも当たり前だった。みな厄介ごとには関わりたくないのだ。ましてや、この寮で一、二を争う実力の持ち主同士の喧嘩。もともと寮では人気のあったフェインも今ではすっかりやさぐれ、ガラの悪い連中とつるむようになってからは皆が恐れるようになった。それもこれも、クラシスが来てからだ。
 フェインは苛立ちを吐くかのように舌打ちすると、クラシスを目の前にあったクラシスの部屋に引きずり込んだ。



 引きずられたクラシスはそのまま床に放り投げられた。明かりは点いておらず、普段からあまり日の当たる事のないこの部屋は、昼間でも薄暗い。私刑するにはもってこいだろう。
 フェインが拳を握り締めたのが薄く見える。

「年上に刃向かうとどういうことになるか、よーく教えてやるよ」

 また拳骨が飛んできた。今度はどこか口の中を切ったのか、鉄の味が広がった。いつの間にか周りを他の従士に囲まれ、両腕を封じられる。両側に一人ずつがっしりと抑えられ、そう簡単には外れそうにない。

「お前、姫と騎士に取り入って何企んでる?」
「別に、何も……」
「嘘ついてんじゃねえよ!」

 また殴られた。スイッチが入ったかのようにクラシスがフェインを睨みつける。

「僕が何をしようと、例え何かを企んでいようと、お前には関係ないだろう!」

 その気迫にフェイン以外の従士たちが一瞬ひるむ。その一瞬に、クラシスは反撃をしかけた。腕は封じられていたものの、足は自由だったのだ。真正面に居たフェインが蹴り飛ばされる。

 それからは乱闘に近かった。多勢に無勢、一度他の連中に手足を押さえつけられると集中攻撃を受けたりもしたが、その度にクラシスはなんとか逆襲した。何か訳の分からないことを叫んでいた気がする。
 どれくらい経ったのか分からない。気づけば、クラシスの部屋には顔を腫らした数人の従士たちがぞろぞろと倒れていたが、そこにクラシスの姿はなかった。



 その頃、当のクラシスは、従士寮の通り廊下を身体を引きづりながら歩いていた。
 一歩、また一歩と足を動かすたび、身体が軋み悲鳴を上げる。喘ぎ喘ぎ呼吸すると、肺がひどく痛んだ。どこか骨をやられたかもしれない。
 とりあえず、医務室に行こう。それから、一応僕の部屋でぶっ倒れてるやつらにも手当てしてもらわないと……。

「クラシース!」

 背後から、そんな述懐を吹っ飛ばす声と、衝撃がクラシスを襲った。
 どすーん、と鈍い音が響く。同時に、身体中をビキビキと電撃が走った。

「……あれ?」
「ッ……!!」

 痛い痛い痛い。早くどいてくれ!
 いつもなら耐えられたその体重も、今は鉛のように重い。うつ伏せに倒れたままティナベルを背中に乗せた状態のクラシスはティナベルに構う余裕もなく、痛みに震えていた。

「クラシス、どうしたの……?」

 "いつも"のように抱きついたティナベルは、クラシスの"いつも"と違う反応に当惑していた。言われる前に、そろそろとクラシスの上からどく。
 急に負荷がなくなり、ティナベルの方に顔を上げるとパチリと目が合った。

「ティ、ティナ……」
「じゃう……」
「え?」

 ティナベルの顔がどんどんひしゃげていく。やがて感情という波を抑える防波堤が崩壊したように、凄まじい勢いでティナベルは叫んだ。

「クラシスがしんじゃう――!!」
「はあっ!? あ、あの、僕は大丈――」

 当の本人を余所に、一度決壊したティナベルはもう勝手には止まらない。クラシスの声も聞こえず、ついには大声で泣き出してしまった。

 そんなに心配させるほど自分はひどい顔をしていたのか?

「姫! どうなさったんですか」

 ティナベルの大声を聴き、急いでこちらにやってくる人影があった。マリアンだ。助かった、とクラシスは思った。
 マリアンはクラシスの怪我を見るとはっとしたように息を飲んだ。

「クラシス、その怪我は――ああもう、二人とも私の部屋へ。ここは目立ちます」

 言われて、ここは従士寮だったのだと思い出した。騒ぎを聞きつけた従士たちが何だ何だと集まり始めていたのだ。



 マリアンが呼んだ医者に大まかに診察してもらうと、骨には特に損傷は見られないと分かった。ただ、それ以外は全身に打撲による青あざや擦り傷なんてものは数えきれないほどあり、クラシス自身服を脱いでみて初めて気付いたものも多く、思っていたより攻撃を喰らっていたんだな、と思った。
 それから小さな怪我の手当はマリアンが引き受け、医者にはクラシスが倒してしまった他の従士たちの治療に向かってもらうことになった。

「いてっ」
「はいはい、我慢ガマン」

 これで終わり、とマリアンはクラシスの口の端に絆創膏を貼った。口元の違和感についその絆創膏を触れると、ズキリとした痛みに身体が跳ねた。あははは、とマリアンが笑う。

「にしても、バカだねぇ。多勢に無勢って知らない?」
「それは僕に言っているんですか、それとも襲ってきたあいつらにですか」
「んー、この場合両方、かな?」

 クラシスは項垂れた。マリアンが手配してくれたため、今頃はフェインたちの元にも医者が着いているだろう。もしかしたらもうクラシスの部屋からは立ち去っているかもしれない。
 しかし、この騒ぎが大事になっていない訳がない。

「クラシス、もうへいき?」

 マリアンの部屋に来てから、ティナベルはまだ少々ぐずりながらもようやく落ち着きを取り戻していた。クラシスは笑顔を返す。

「骨も折れてないし大丈夫だよ」

 それでもまだ心配そうに眉じりを下げているティナベルの頭を撫でてやると、少しだけ笑顔を返してくれた。
 その光景を真正面から眺めていたマリアンがンフフと微笑む。

「さてさて、落ち着いたところでティータイムにでもしましょうか。姫様、いつもの場所からお茶の葉を持ってきてくれますか?」
「うん!」

 パタパタと駆けていくティナベルの後姿を見送ったあと、マリアンは一度だけ真剣にクラシスを見据えた。

「このことはできる限り穏便に済ませたいのだけど……ただの喧嘩って言っても、事が事だからねぇ」
「……はい。分かっています」
「クローゼス卿が居るからそんなに大きな処分は下されないとは思うけど。せいぜい一週間の謹慎、くらいかな?」

 あの人クラシスには甘いからねぇ、とマリアンはつけ足した。なんとなく自覚はしていたが、やはり他の人間から見てもあの人は自分を目に掛けてくれているのだ。それが、余計に他の従士たちを刺激していることもまた事実だった。

「ま、もともと従士隊全員に甘い人だったけどね。あんまり落ち込まないようにね。いつでも自分とは噛み合わない、敵ってのは居るもんよ」
「マリアンさんにも居るんですか? そういう――反発してくる人」

 クラシスの問いかけに、マリアンはうーん……と顔を逸らした。珍しく苦い表情をしている。

「私はまあ……初の女護衛騎士ですから。ここまで来るのはいろいろ大変だったなぁ」
「そういえば、マリアンさんはどうして護衛騎士になろうと――」

 次いでたクラシスの疑問を、突然マリアンの指が遮った。マリアンの表情はいつもと違い、どこか遠くを見ている。唇をゆっくりなぞられ、クラシスは動揺した。訊いてはいけなかったのだろうか。

「……てたら……ちょうど、君と同じくらいだったかな」
「……は、はい? ……痛って!」
「あ、あぁ! ごめんごめん」

 口の端の絆創膏の上まで触れられ、クラシスはピリッとした痛みに跳ねた。その声にハッと意識を戻したマリアンは、それからあはははーとごまかすように笑いだした。その笑いが次第に力なく途切れると、今度は沈黙が流れ始めた。
 まだ動揺しているクラシスはじっと顔を俯かせていた。おかしい。マリアンの顔を見ることができない。こんなにも顔が熱いのは、きっと怪我の痛みでどうにかなってしまったんだと思い込むことにした。
 そうだ、と逃げ道を見つけたクラシスはガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。

「ティ、ティナ! ティナ遅いですねっ、僕ちょっと見てきます」

 そそくさと逃げたクラシスをぽかんと見つめていたマリアンは、人影のなくなった開いた扉を眺めて一人ふと笑った。


 マリアンの自室は、それなりに広いリビングと小さな寝室の二つだ。廊下からはリビングに通じる扉だけがあり、寝室への出入り口は中のリビングしかない。マリアンの趣味であるティーセットはその寝室の戸棚にしまってあるらしい。
 マリアンの自室はクラシスの部屋と違い、昼間でも大きな窓からさんさんと太陽光を浴びて、灯りを点けなくとも充分に明るい。寝室に入ると、すぐにティナベルの姿が目に入った。うんうん唸りながら必死に身体を伸ばし、戸棚の高いところにある茶箱を取ろうとしている。ティナベル用に用意されたらしき小さな立ち台を使っているものの、まだお目当てのものには届かないらしい。

「ティナ? わざわざ上のを取らなくても、その下の茶の葉でいいんじゃ……」
「だめなの! 今日はうえのお茶!」

 ティナベルは言い切って、もう一回背をうんと伸ばした。上と下で何が違うのか、クラシスにはお茶の種類などさっぱりだ。
 もうこれ以上伸ばすことはできないくらいに限界まで腕を伸ばしたティナベルは、小動物のようにプルプル震えている。

「もう僕が取ろうか――うわっ!」

 橙色の髪が揺れる。いつ助けるべきか見守っていたクラシスが不意に叫んだ。
 直後、ズダーン、と大きな地響きが部屋に響き渡った。ティナベルが変な風に体重をかけたため、バランスを崩し立ち台ごとひっくり返ったのだ。
 パチパチと数秒瞬きを繰り返していたティナベルは、両手にしっかり掴んでいた茶箱を見てにぱっと笑った。

「自分でとれたよー!」
「君は落ちてばっかりだな……」

 僕は下敷きにされてばかりだ。直前になってなんとかキャッチしたクラシスは堪らずため息を吐いたが、自分の上で幸せそうに笑うティナベルを見て思わず苦笑した。全身がひび割れるように痛い。そういえば自分は怪我をしていたんだった。

「クラシス、このお茶ねえ、おケガにいいんだって! 前にマリアンがいってたの!」
「え?」
「そのかわりとってもニガいんだけどねー、えへへへー。ティナも前にのんだことあるんだあ。でももうぜったいのまない!」

 ティナベルは清々しいほどの笑顔で言った。苦いと聞いてクラシスは一瞬顔をしかめたが、自然とすぐに頬が緩む。
 
「……ありがとう、ティナ」

 絹のようになめらかな髪を撫でてやると、ティナベルは目を細めてくすぐったそうに喜ぶ。手に頬を擦りつけてくる様子を見ていると、ふと、仔猫のようだなと思った。

「二人ともー、お茶の用意はできたの?」

 どれくらい経っていたのか、待ちくたびれたマリアンが出入り口から顔を覗かせた。